「わかってくれるよね」が、プレッシャーになるとき
SNSに漂う空気の中で、時々ふっと感じる“居心地の悪さ”。
それは、直接的に責められているわけでも、名指しで言われているわけでもない。
でも、「共感しない自分は冷たいのかな?」と、妙な罪悪感が残る。
Z世代の間では今、“共感ハラスメント(共ハラ)”という言葉が静かに注目されています。
“共感するのが当たり前”というムードの中で、それが無意識の圧力になってしまう。
「いいね押さなきゃ」
「共感しないと関係が崩れるかも」
そんな“空気の強要”が、SNSの自由な発信を少しずつ蝕んでいるのかもしれません。
「共感が基本」のSNS構造が抱えるジレンマ
そもそもSNSは、「いいね」や「RT」「♡」といったリアクションベースの設計。
共感=肯定が前提の世界です。
つまり、誰かの投稿を「わかる!」「それな!」と返すことで、関係が深まっていく構造。
でもこの仕組みは、「共感できないと会話が止まる」「違和感を表明しづらい」
そんな**“感情の偏り”を生みやすい**という側面も持ち合わせています。
たとえば、ある投稿に多くの共感コメントが並んでいると、
「これは共感すべき空気なんだな」と察してしまう。
逆に自分が共感できなかったとき、その気持ち自体を抑えてしまう。
共感が基準になることで、「違和感」や「中立」が排除されていく——。
Z世代のSNSは、そんな感情の同調圧力に揺れているのです。
共感って、誰のためにしてるんだろう?

共感は本来、自然に湧き上がる感情です。
でもSNSでは、「共感してあげるべき」という振る舞いに変わってしまう瞬間があります。
たとえば:
- 微妙な内容だけど、関係を保つためにいいねを押す
- 本音では違う意見だけど、グループの空気を壊さないよう同調する
- 共感コメントを残さないと「冷たい人」と思われる不安
それはもう、共感ではなく“気配り”や“処世術”に近い。
Z世代のSNSがリアルな感情を尊重する一方で、
本当の気持ちよりも「相手の期待」に寄り添うことが優先される場面も少なくありません。
“共感圧”がもたらす副作用
このような「共感前提」の文化は、意外な副作用を生んでいます。
- 自分の感情を置き去りにして、周囲に合わせ続けることの疲れ
- 誰かのつらさに共感できなかった自分への罪悪感
- 違和感を口に出せない閉塞感
- 「共感できない=冷たい人」というレッテル
つまり、「共感しなければならない」というルールが、SNSでの自己表現の自由を奪ってしまうのです。
「わかってくれるよね?」という投稿が、
時に「わかれない自分はおかしいのかな…」という気持ちを生んでしまう。
共感の強要は、発信者の意図を超えて、
**見る側の感情にノイズを生む“共感ハラスメント”**として広がっているのかもしれません。
「わかってくれる人だけでいい」は本当にやさしいのか

最近よく見かけるフレーズ、「わかってくれる人だけに届けばいい」。
この言葉には、自分を守る気持ちや、優しい距離の取り方がにじんでいます。
けれど一方で、それが**“わからない人を排除するメッセージ”**に聞こえてしまうことも。
SNSは本来、多様な考えや感情が交差する場所のはず。
だからこそ、「共感できる人だけでいい」という姿勢は、
共感を境に分断が生まれる危うさもはらんでいるのです。
まとめ:共感しない自由も、そっと守りたい
共感することは大事。
でも、共感できないときの自分も、大切にしていい。
Z世代が大切にしてきた“等身大の感情”や“素直な共感”は、
誰かに合わせて作るものじゃなく、自分の中から生まれるもの。
「わからない」「今はちょっと距離を置きたい」
そんな気持ちも、SNSの中で安心して持てる場所があっていい。
共感の強制ではなく、感情のグラデーションに寛容なSNS。
BuzzScopeは、そんな“ちょっと息がしやすい場所”を一緒につくっていきたいと思っています。
ライター:アヤノ・モカ
Z世代の“なんとなく好き”を深掘るSNSカルチャー観察ライター。投稿者の言葉づかいや間の取り方、目線や余白の使い方に注目しながら、「共感される理由」をていねいに拾い上げるのが得意。バズの構造だけでなく、そこに漂う“空気の正体”を言語化し、フォロワーとの距離感が変化する瞬間に強く興味を持つ。